昭和46年02月05日 朝の御理解
御理解 第58節
「人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立ててはならぬ。盗人をしておらねばよし。乞食じゃと言うても、もらいに行かねば乞食ではなし。神がよく観て居る。しっかり信心の帯をせよ。」
信心を進めて行くことはどう言う事かと、昨夜の御理解の中に信心がなければ世界が闇なりと教えて下さいました。信心がなければ世界が闇と。それはどう言う事かというと、信心が有れば世界が明るくなる。世界とは言わなくても自分の世界、名々が持っておる世界。まあそれは自分の心の中というて良かろう。自分の家庭、自分の環境なり範囲というても良いでしょう。だから信心とは、結局光だと言う事になるのですね。光明です。信心が無からなければ世界は闇なりと。
ですから、私共信心をさして頂いてその光明を求め、光を受けて行くと言う事をお道では信心と言う事になるのです。信心とは御利益を受ける事ではない。信心とは光を受けて行くことの為なのだ。そこで例えば今日の五十八節を頂きましてですね、私共が光を願う、自分の心の中に光を頂く。自分の周囲が明るくなって来る。自分の世界が広がって行く。その光りに潤うて行く。
そういう光を頂いて行く、受けて行くと言う事の為にどういう修行がいるか、どういう信心をせなければならないか、又神様はそういうおかげを願う氏子の為にどういう働きを下さるかという事になるのですね。然も小さい光よりも大きい光をお互いが願う訳です。そこで、これは私の流儀と言いましょうかね。成り行きを大切にすると言った様な事をここの信心のひとつの筋金と私は思うのです。それはどう言う事かというと自然との対決なのです。成り行きを大切にして行くと言う事はね。
然もその成り行きが例えばこの御理解からいうと、泥棒はしておらんけれども、お前は泥棒だと言われる事が有るかも知れんのです。その泥棒と言われる事を大切にして合掌して受けて行こうというのですから、それは大変な事です。お前は乞食じゃという。言われる事があるか知れんのですよ。俺が何時乞食をしたかというたんでは私は自然の対決に負けた様なもんだとこう思うのです。火のないところに煙りは立たんといわれる位ですから。泥棒と言われたらほんに。
自分は泥棒じゃなかろうかと思うてみねばいけませんよね。お前は乞食じゃと言われたら、ほんに自分は貰いに行った事はありませんにしてもです、いわゆる乞食根性が巣くっているんじゃなかろうかと反省してみる事も大事。自分の本質を見極めてみる事も大事。そこから信心の深さというものが出来て来る。いわば親鸞上人様じゃないけれど、それこそ自分は日本一の大悪人だと悟られた。然も晩年の頃の心がそうであったというのですから。自分というものを愈々本気で見極める。
ここでは泥棒とか乞食とかいう言葉を使っておられますけど兎に角成り行きの中に神様が私共の上に働きかけて下さるその働きの中にです、只有り難うさえ受けて良いのですけど有り難うだけは受けられない、この事だけは一言いうとかなければと言う事も有る。これだけはこうしとかなければと言う事も有るけれども、そこのところの対決の場合です。日頃の信心ですね。いうなら五十七節を読んで見ますと、金の杖をつけば曲がる。竹や木は折れる。 神を杖につけば楽じゃ。
と仰る。だからそれこそ、神様だけが御承知の世界に生き抜かせておる信心に於いておやであります。なのですから人は知らんのだ。神様が見ておって下さるのだから神の杖をついた訳である。様々に難儀に感ずることが有ります。人にも頼ってもみた。金にも頼ってみた。けれどもいけない時には神様に縋るより外にない。それが神の杖をついたということ。北野の秋山さんが月末の支払いが今月こげな事になるとは思わなかったけれども、こう言う事で支払いが出来なくなって仕舞った。
そこで心当たりのところも有るから金を借りにでも行こうかとお届けがあった。もう秋山さん程の信心を頂いている方だし、人に頼ると言う事がどの位に他愛のないつまらん事かと、何の為の信心しよるか、こういうとき神様に縋らにゃという様な感じがしましたから、私は申しました。「あっちこっち金を借りに行くなんて思わずにね。神様に一心に御縋りしなさい。未だ今日もあれば明日もあるじゃないか。
そして若し出来ない時にはね、それこそ普通では面を被って断りに行くち言うが、断りに行く気持ちになったら良いが、」私はそんな風に、いわゆる金や人を頼るのではなくてね、神を杖につくことを申しました。これは皆さんゆうべ誰だったでしょうか、松栄会の人だったでしょうか。私がここを退ってからでしたから、十一時でしょうか。炬燵の間で話し合いをしているのに、私一寸入って参りましてから、話した事ですけれどね、昔から云うちゃる、当てにしたとは向こうから外れる。
だからそれは当てになるものが。そこに在ってもね、それも一応は当てにしてはならん。的(あて)をして当てにしてはならん。神様ちゃ妙なお方じゃからね。人間が当てにしとる事をご覧になったらこれは当てにしとったちゃけおかげと思わぬ。神様はね、あてにしない、思いもかけないところからおかげを下さった時に、初めて人間ちゅうものは、ああおかげ頂いたというもんだ。そのああおかげを頂いたというそれが有り難い。それが信心なのだから、当てと言う事は自分が当てにしておるものが。
当てになるものであってもそれをポンと向こうに放して、いや当てにならん、それが万一当てにならなくても良いという心で居らなければいけないという。当てにしてはいけないと云う話した。秋山さんの場合でもそうである。そしたら先生もう思いも掛けないところから、こういう様な経路を辿ってね、お繰り合わせを頂いたというのです。これはまあ、秋山さんの場合はそういう体験はいつも頂いておられる訳なんですけれども、少し行き詰まるとああどこに借りに行こうか、どこに相談に行こうか。
だれにいっちょ話してみようかと言う事になるのです。それでは未だ神を杖についたとは云えない。何故神を杖についてかなければいけないか。今日はそこんところを私共が愈々自然との対決の場に於いて、そこでいうならば負けてはならない。今日の御理解からいうとそういう時にこそ光を頂く時だから、大事にせなければいけない。それは信心をさせて頂いておりますとですね、場合にはそれこそ、家内からでも親からでもまあ泥棒とは云われん。乞食とはいわれんにしてもです。
あなたのする事は分からんといわれる様な事が有りますよ。それをなら赤面弁慶になって説明したところで仕方がない。段々信心させて頂いて人からは笑われても。神様からは笑われてはならぬと言った様な信心が出来て参ります。神様から笑われちゃならん。桂先生の御教えの中に、親に不孝して神に孝行すると仰られた。親に不孝をして神に孝行する氏子あるが、親に孝行して神に不孝をする氏子が有る。だから信心を進めて行く。信心のそのときそのときの現場に於いてですね、そういう場合が有るのです。
例えば私の修行中にそれは余りに激しい事に成って参りますもんですからね。商売大体商売人ですから商売を全然手を付けようともしないで、破れ服を着て破れ鞄を提げて破れ靴履いて来る日も来る日もどこどこへ話に行かにゃならん。どこどこへお導きに行くとかそれこそ家は火の車てんなんてんじゃなかった。それはもうひどい事であった。そこで或る時に父が申しました。信心を止めろとはいわん。商売をすれば一人前出来るのに、商売もほったらかして、私どん年寄りはどうするかと云う。
お前がそう言う事ならいよいよ仕様ないから私達はお四国さん詣りでもせねばならんとそういうて迫ってきました両親が。そういう時にです。親からそういわれればそうどころじゃないというて私共が神様を取らずに親に孝行しておったら合楽の今日は開けとらんです。親と言えばね、世界で一番大切なものといえば、あんたどん二人が一番大切なんだ。大事と云うなら大切と言うなら。けれどもね、神様の仰せには背かれんというのが現在の私の心境なのだからと云う訳なんです。
世界中で一番親が大切、その親の為に初めは一生懸命、本気で修行させて頂こう位の親に、肉親の親にそう言われた時私はそういう風に申しました。家内の場合でもそうでした。いろいろ難題を私に申します。お前がそげんいったっちゃ。確かにね世界中で最愛ちゅう一番愛するならお前以外にないと私は云います。世界中で一番愛しているお前がいうてもです、お前が親の言う事を聞けんごと在るならば俺はお前といつでも別れる。これは家内に対するこれはいつもの家内に対する姿勢であった。
それは今でも変わらん。そういう大切な親がです。そういう大切な親が、私に信心を止めろとは云わん。商売をさせて頂きながらでもできはせんかと。お前がこのまま行くならね、お四国さん参りでもせにゃ仕様ないと迄云われた時にその対決の時に、私は矢張り神様の方をとっておった。私は今日はね、ここは盗人とか乞食とかと言葉使っていうとられますが、今日私が申しております様な事もこの中にはいると思うのです。いわゆる自然との対決の時にです。
親からたとえ悪ういわれても神様から悪ういわれちゃならぬ。人から笑われても神様から笑われちゃならぬという信心。私は光を受ける時はそういう時と思うですね。私が光を受けたい。信心は徳を受ける事なのだ。信心は光を受ける事なのだ。その徳を光明を目指して深い信心をさせて頂くのだ。ならその光明が欲しい。光が欲しいならばその光の頂かれる信心をせなければいけないのだ。神様は本当に私共には分からないもう理不尽なことを私共に求めなさる場合が有る。
昨日鳥栖の二三夫さんがお参りに見えた。それは横浜へ兄弟が行っておられる。大体三猪郡の方へ縁につかれて今はあちらの方へ二三夫さん達夫婦が行っておられる。それが大変難儀な病気になった。いくら医者にかかっても良うはならん。そこで大体金光様の信心をしておられる三猪郡の方の教会で信心しとられる、そしてあちらへ行っても信心しとられる。それがもうどうしてもおかげ頂けんからまあ合楽にお願いして呉れぬかと云うお願いの手紙が来たからと言うてお願いに見えた。
それで私はそれについてお願いさして貰ってお届けさして貰って御神米を下げようと思ってお届けさして貰った。御心眼にそしたら昔筍の子印のマッチが有ったですね。今でも有りますかね。筍の子印のマッチがそれをこうやって横にこう頂いた御心眼に。はあこれは立て直さなけりゃいけんなと思うた。マッチと言う事は火をつける事ですからね。信心に云わば熱を掛けねばいけんが、熱をかける焦点をどこに置かなけりゃいけんかと言う事なんです。それで私は御神米に「親孝行の信心」と書かせて頂いた
。何故かというと筍の子というお知らせは親孝行と頂くんです。またこの事は頂いた事が有ります。芝居に二十四孝と行ったようなものが有りますよね。その二十四孝の中にあります。筍の子掘りの場があります。親が子供に筍が食べたいという訳です。もうそれこそ雪がちらちら降っている冬の真っ最中、今頃ならですね。缶詰でも有りますけど、その頃缶詰のない時分じゃった。
こげな寒い時にどうして筍の子が有るかと言わなかった訳です。この寒中に筍のあろう道理は無けれども親に孝行する為に天の与えで有るかも知れんというて裏の竹やぶに入って筍を掘るところがある。私はこの辺だと思う。親が所謂理不尽なのです。神様はそういうところが有る。寒中に筍掘れとおっしゃる事がある。神様こういう時に筍が有る筈がないじゃないかと云わずに結局先日から言う様にはいという以外にないのだ信心は。親に孝行すれば天の与えで有るかも知れん。掘った。
成程筍はなかったけれども、自分が永年探し求める刀が出て来た。親はそれが与えたいばっかりであった。そう言う様に神様は理不尽な泥棒じゃ乞食じゃといわれると同じ様にです。そういう事がと言う様な事が有るけれども、そこんところを神様がああ仰るからと云う気持ちになって、まあ親孝行を頂くときにお知らせだから、私は親孝行のそれを立て直さなけりゃいけない。信心をしておっても信心の焦点がです、狂っておっては駄目だから真っ赤な筍のヒントを得て親孝行の信心と書いてやった。
上野さんがそれを押し頂いてから言われる事が、先生実はその手紙の中にですね、三猪郡の方に居られる親を実は放うからかしにしておるとだから、本当に近頃は親不孝ばかりしとるけん、その為じゃなかろうかとちっとは自分も気づきよる。だから、本気で親孝行すりゃ良いけれども、それは只しとらん。もう本当に妹がどんなに喜ぶか分からんちゅうてから帰られました。それなんだ。合楽でお取り次ぎ頂いたら、親先生がこうおっしゃった。親孝行の信心。
いわゆるそこから信心の立て直し、焦点がかえられて来たらおかげになるだろうとこう云うのである。そう言う様な意味で筍堀の話をさして頂いたんですけれども、私共が光を頂くと言う事。力を受けると言う事。信は力なりとか、光りなりとか言われております。その力を頂くと言う事、光を頂くと言う事。私共はその力を目指すのである。その光を目指すのである。ですから、そのためには神様がそういう様々なところを通らせて下さらなければならない事になる。
そういう時に神様に縋らず、あっち縋りこっち縋りしたらどう言う事になりましょうか。それこそ、金の杖は曲がり、木や竹の杖は折れるといった結果しか生まれてまいりません。頼りになる。本当に縋れるのは神様以外にないと。私共信念さして貰うところにそのことがすでに光である。徳力であると思う。お互いがこうして信心の稽古させて頂いて目指すところが矢張り光でなければいけない。その光が頂きたい。力が頂きたい。力を受ける、光を受ける理屈は同じですけれども、例えばそうですね。
百斤の難儀を持てる人がへとへとしとる人が有る。それが五百斤持てる人から見たら何でもないこと。素晴らしいでしょうが。力を受けると言う事は。たった三十斤ばかり持って先生どうしましょうかという人が有る。それなら私が百斤持ってやろうと、持ってやると楽になられる。力と云うものはそんなに有り難いものなのである。光り同じこと。薄暗い光りじゃから手探りしよる。有るやら無いやら分からん。それがおおきな光りになって来る時に、そこんにきがはっきり明瞭になってくる。
人が例えば、一里先しか見えない。一里先も見える人は無かろうけれども、まあその辺までしか見えん人が向こうの方まで見える様になるのですから、おおそりゃ心配いらんと云うことになる訳です。そこで私共信心さして頂いて行く内にです、どういう事が起こらんとも限らない訳ですけれども、そのどういう事でもという時にです。私共がいつ乞食したか、いつ泥棒したかと言う事ではなくてです、神様が御承知の世界に生きておるんだと。人から笑われても神様から笑われてはならんという。
いわゆるしっかり信心の帯をしとかにゃならんと言う事です。神がよく観ておる、しっかり信心の帯をしめよと云うておられます。しっかり信心の帯をしときませんとね。いよいよの時に迷わなければなりません。どっこいという勇気が出ません。今日は五十八節をその様なところから頂きました。泥棒だとか、盗っ人だとかいわれても泥棒しとらにゃ良か、乞食しとらにゃ良か、神様は観てござるというところを、私は今日は自然との対決の場に於いてという風にもうしました。
そういう時に私共がいつも思うておかなけりゃならん事はです。人からは例えば悪くいわれても場合によってはそれは、例えば肉親の親でも世界中で一番大事な親がたとえいうても、もう一つ上の親であるところの天地の親神様の御心には背かれん。それは人間には分からない理不尽な事もある。自分達の考えが本当の様な時もあるけれども、さあそこがいわゆる筍掘りである。神様からは笑われてはならん、という姿勢をいつも持っとかなけりゃならんと云うこと。
それは私共が光を頂きたい、力を頂きたいと思うならばそういういよいよ光を頂かして頂く。力を頂かして頂くという場合に臨んでも、そういう姿勢を持っておかなければいつまでたっても只お参りしよります、只拝みよりますとおかげを頂いて行くだけであって、力も光りも頂かないでは、いわゆる信心の焦点を間違えておる事になる。只お願いをしておかげを頂かして下さい。
これはこの頃親不孝しとるけんじゃなかろうかと思うただけじゃいかん。本当に親孝行さして貰う気にならねばおかげにならん。殊に私共が光を受けたい。ならば光を受けさせて頂くチャンスというものはそういつもざらにあるもんじゃない。そういうチャンスに恵まれた時にそのチャンスを大事にして行かなければいけんという意味のことを五十八節から頂きましたですね。
どうぞ。